パラダイス・ナウ

東京都写真美術館1階ホール。ずしーんと体が重くなった。帰りの電車に乗ってもぼーっとしてて、頭の中を切り替えるために音楽を聴かずにはいられなかった。
イスラエル自爆テロを行うアラブ人の2人の若者の話。普通に車の修理工として働いていたサイードとハーレドが突然、明日のテロ決行を告げられる。素直にそれに従い、爆弾を体に巻き付ける2人。当日、意気込んでたハーレドとは対称的に言葉少なげだったサイードは偶然組織からはぐれる。イスラエル側のバス停で(自爆の対象となりうる)バスに乗らず思いとどまるサイード。爆弾を抱えたまま一人で街をさまよう。
英雄の娘でフランス帰りのスーハは自爆テロを否定する。彼女と会い、乗り気だったハーレドは考えを改める。けれど彼女からの好意を受けてたにもかかわらず、サイードは逆に決意を固める。この、2人の思いが逆転するところがみどころ。
イードイスラエルから侮辱されつづけていること、父親がパレスチナを裏切って刑に処されたこと、現状の生活が価値のない人生であることなどをあげて、もう一度爆弾を胸に巻く。だけど、その苦しさはこの映画内では十分に描かれていないと思う。街中の爆撃によって市民が死ぬシーンや周りから差別を受ける子供の頃のサイードのシーンはない。いつものように自動車をいじってて、帰る途中で明日死んでこいって言われてうなずく心境は全然に理解できない。自分に置き換えてみて、その精神状態へあまりにもかけ離れていることに気づく。いったいどれだけのことがあれば肯定できるのか。
もちろん、これは意図的にそうしているのだ。イスラエルパレスチナにいるごく普通にみえる若者が、生まれた時から染み付いてる憎悪と環境によって決意してしまうということ。
この映画は自爆テロの原因と結果は描いていない。それらは他のところで知ってしまっているから。その2つの間にいる人間を描くことで、その2つを観客に想像させている。
追記:数字を比較してもしょうがない。数の大小が逆だったとしても平和にはつながらない。

毎日新聞』2006年12月31日号でイスラエルの人権団体「ベツェレム」のまとめを報じたところによると、2006年中の12月27日までの集計で、イスラエル軍に殺害されたパレスチナ人は660人(未成年141人)、パレスチナ側に殺害されたイスラエル人は23人であった。パレスチナ側の犠牲者は前年の3倍以上で、逆にイスラエル側の犠牲者は、2000年以降では最少であった。パレスチナ側犠牲者のうち、少なくとも322人はイスラエルへの敵対行為に参加しておらず、イスラエル側犠牲者のうち17人は一般市民であったという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/パレスチナ問題